「熟考に熟考を重ねて、姫の名として相応しい一字を選んだ」
と前置きして、信長は箱の上にかかっている打ち紐を丁寧に解いていった。
濃姫はそれを横目で見守りながら、このまま文箱の蓋が開かなければ良いのにと願った。
が、皮肉にも箱の蓋は音一つ立てることなく、信長の手によって簡単に持ち上げられてゆく。
そして蓋を開いた先に、二つ折にされた和紙が現れると 植髮
「この信長が、我が嫡女に命名するのは…」に告げながら、信長は文箱の中にそっと手を伸ばした。
濃姫も観念したのか、深く双眼を伏せていると
「──にございますね!」
ふいに下座から、奇妙の声が弾け飛んだ。
皆の視線が一斉に、笑顔満面の奇妙に集まる。
信長も「ん」となって、箱の中に伸ばしかけた手を止めた。
「……こちょう? 何じゃそのおかしげな名は」
「以前、養母上様と約束したのでございます。もしも養母上様が姫君をお産みになられた時は、胡蝶とお名付け下さいませと」
奇妙の話を聞いて、信長は傍らの妻に目を向ける。
「そうなのか?お濃」
「…はい。私の名が帰蝶でした故、もしも姫が産まれたら、その子の名は胡蝶が良いのではないかと、奇妙殿が申して」
「何故に胡蝶なのじゃ?」
「ちょうどその折に源氏物語の胡蝶の巻の話をしておりまして。…それと私が昔、縁起の問題から、
帰蝶よりも胡蝶という名に憧れていた時期があったという話を、奇妙殿にしたものですから」
信長はそれを聞いて “ ふーん ” という顔をすると、再び視線を下座に戻した。
下座では、いつの間にか奇妙が片膝立ちして
「胡蝶、胡蝶──。そなたの名は胡蝶じゃぞ。どうじゃ?美しい名であろう」
と、姫君の顔を再び覗き込みながら、さも嬉しそうに語りかけていた。
「“ 胡蝶様 ” “ 胡蝶姫様 ”──まぁ何と良い響き」
「ほんに。蝶の如くお美しい姫君様には、実に似合いの御名にございますな」
三保野もお菜津も姫に相応しい名だと、大いに褒めそやした。
信長は文箱の中の和紙を手を取り、膝の上で小さく広げると
「…これとて、姫に相応しい名じゃと思うがのう」
悩ましげな面持ちで、和紙に書かれた『鍋』の字をしげしげと眺めた。
濃姫はそんな夫の横顔と、賑やかな下座の様子とを交互に見やると
「皆々控えるのじゃ──」
毅然とした面持ちで一同に告げた。
そして思いがけずも奇妙にこう述べた。
「申し訳ありませぬが、は、奇妙殿とのお約束を果たせそうにありませぬ」
「え?」
「既に、殿がお考え下さっている、姫の御名があるのです。故に… “ 胡蝶 ” とは名付けられませぬ」
「養母上様──」
「とても良き名ではございまするが、姫の名付けの権限は、父君たる殿がお持ちじゃ。殿の御意に従いましょう。…のう」
濃姫は言いめるように奇妙に告げた。
濃姫とて、本当は胡蝶と名付けたい思いでいっぱいだった。
けれど、信長も信長なりに、愛娘のことを想って『 鍋 』と名付けてくれたのであろう。
事実、寝所で姫の名前について語っていた信長の顔は喜びに溢れていた。
少なくとも、いつものように適当に付けた名前ではなかったはずだ。
それを考えると、濃姫は妻として、夫であり、姫君の父である信長の想いを無下には出来なかった。
濃姫は信長の方に向き直り、三つ指をつくと
「殿──。どうぞ、姫君の御名を皆にご披露下さいませ」
「お濃」