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「そうかもね。


「そうかもね。毎日、人の履物を預かり、返すだけの単調な毎日よ」

珠緒はそう言うと、お茶を飲んだ。

 


しばらくすると、あんみつが二つ運ばれてきた。植髮

 


「きっと、百貨店にはいろんな方々がお越しになるんでしょうね。資産家も役人も、女学生も」

 


「下足番の先輩が話していたわ。景気が良い頃は、下駄の鼻緒をきれいに拭いたただけで、もらえたことがあったって」

 


「……!土を拭いただけで!」

ひゐろは驚いて、むせてしまう。

 


「大丈夫? 今じゃ、考えられないでしょう?

……話は変わるけれど、先日ひゐろのお母様が日舞の教室へお越しになって、『大変恐縮ですが、こちらをやめさせていただきます。な娘で、申し訳ありません』とおっしゃっていたわ」

 


――ーお母様が私の代わりに、そんなことを。ひゐろは驚いた。

 


「……実は私、本郷の家を出たの」

 


「えっ!どうして?何があったの?」

 


「ううん。ただ家にいると、下宿に孟さんがいないという現実を、まざまざと突きつけられているような気持ちになるの」

 


「……そうか。それは、そうよね」

珠緒は再び、お茶を飲んだ。「現実を受け止められるまで、時間が少し欲しくて。今は、とても消化できずにいる。私が未熟なのかもしれないけど……」

 


「それで良いのだと思う。ひゐろが好きにすることを、孟さんも願っていると思うわ」

 


ほどなくして、ひゐろと珠緒は甘味処を出て、別れた。

 


ひゐろは孟との想い出に浸りたくて、再び市電で銀座へ向かった。

 


銀座に着くとひゐろの左側を、黒い羽織を着て長尺の火棒を持つ男が通り過ぎた。夕暮れ時だから、これからガス灯をつけるのであろう。

 


ひゐろは時計台の前に立ち、目を閉じて深呼吸をした。

 


“……会いたい、孟さんに会いたい”と。

 


ひゐろが静かに目を開けると、そこには意外な人が立っていた。「……ひゐろ」

そこに立っていたのは、民子だった。

 


「お母様!なぜここに?」

ひゐろは、驚いた。

 


「孟さんから聞いていたのよ。『いつも夕方になると銀座の時計台の前で、待ち合わせしている』って。いつかきっと、ひゐろがここに来るだろうと思っていたのよ」

 


「……まさか、毎日ここに来ていたの?」

 


「ええ」

 


時計台の前を、一台の蒸気ポンプが走り抜けていった。の建物は雪に濡れ、いっそう赤みを増している。

 


「今日は、まだ雪が残っているわ。お母様、寒かったでしょう?」

 


「さっきここに来たばかりだから、大丈夫よ。……ところで、ひゐろ。住まいは決まったの?」

 


「……いいえ。今は、京橋の旅館にいるわ。それより、お父様、怒っていらっしゃるでしょう?」

民子は、笑みを浮かべた。

 


「当初は、『ひゐろは勘当だ!』と言っていたわ。でもね。それは心配の裏返しなのよ。お父さんからこれを、預かったくらいだから」

民子はの風呂敷包みを、ひゐろに渡した。

 


広げてみると封筒が入っており、中には札が入っていた。

その下には、真新しい薄紅色のの羽織もある。「現金は、お父様にお返しして。多少、私も貯金をしているから。羽織だけいただきます」

ひゐろは、封筒だけを民子に返した。

 


すると民子は、ひゐろの肩を抱き、

「いいのよ。持っていきなさい。一人で生きていくには、何かと入り用だから。それにね。封筒を持って帰ったら、私がお父さんから叱られるわ」

 


そう言って、民子は風呂敷包みに封筒を差し込んだ。

 


「先日、孟さんの荷物一式を、ご実家にお送りしたわ」

 


「……そう」

ひゐろは、それ以上何も答えなかった。

 


「ともかく、ひゐろが元気そうで良かった。住まいが決まったら一度、帰っていらっしゃい。お父さんも、お兄ちゃんたちも心配しているわ」

 


「落ち着いたら、そうするわ。お母様、いつもありがとう」

 


二人は市電に乗り、ひゐろは京橋で降りた。